
コンポンチュナン州って焼き物が有名なイメージくま!ほかにも何かあるのかな?

確かに焼き物が有名だね!あとは、あまり知られていないけどクメールルージュ時代の一大拠点でもあったんだ。今回は、それがわかる二つの跡地を紹介していくよ。
ぼくはこの間旅行でコンポンチュナン州に行ってきて、そこでこれから紹介する二つの跡地を見ることができたんだ。
コンポンチュナン州の旅行の様子はここから見ることができるよ。
コンポンチュナン州はトンレサップ川に面してもいて、そこで水上生活をしている人もいるんだ。その背景はこの記事にまとめたから見てみてね。

カンボジア・コンポンチュナン州とクメールルージュ
まず、簡単にクメールルージュについて考えていくことにしよう。
クメールルージュは人が文明を持たない時代まで回帰することこそが理想だとする「原始共産主義」を掲げ、その障害になりえる知識層を徹底的に排除したことは有名だね。
クメールルージュの活動はカンボジア全土で行われ、コンポンチュナン州も例外ではなかった。
クメールルージュは都市部の人々を田舎に強制移住させたので、コンポンチュナン州にも多くの移住させられた人々がいたと思われるよ。
カンボジア・コンポンチュナン州のクメールルージュ跡地
未完に終わったコンポンチュナン空港
コンポンチュナン州には実は空港があるんだ。
ただ、空港とは言っても飛行機が発着している様子はなく、ただカンボジア空軍が管理している空き地、みたいなところだけど。
コンポンチュナン空港を造るきっかけ

コンポンチュナン空港の滑走路。飛行機の気配はなく、閑散としている。
次にコンポンチュナン空港の歴史について触れていこう。
ポルポトやクメールルージュは中国(当時のトップは毛沢東)を真似していこうとしていたので、中国に接近していったんだ。(今と同じだね!)
そこで、毛沢東たちは協力する代わりに米が欲しいと言った。
コンポンチュナン空港が建設され始めた1977年当時の中国は、文化大革命(1966-76)で大疲弊していて、少しでも多くの食料が必要だった。そこで、自分の味方であるカンボジアに協力を要請したわけだね。
中国とカンボジアは国境を接していないので、米は空輸する必要があった。
またクメールルージュ自身も空軍がなかったので、その技術を必要としていた。
このように、双方の利害が一致したため、中国の援助を受けながらコンポンチュナン空港を建設することにしたんだ。
コンポンチュナン空港はなぜ未完なのか?
結局、コンポンチュナン空港を建設している最中にポルポト政権が崩壊したため、完成することはなかったんだ。
ただ、この空港建設の計画は極秘に進められていたため、ポルポト政権がもう持たないとわかった瞬間に、この計画に関わっていた多くの人々(特に強制的に働かされていた民衆)は処刑されたと言われている。
実際に、この空港周辺には処刑された人のものと思われし骨なんかも見つかっているよ。
コンポンチュナン空港へのアクセス
コンポンチュナン空港へのアクセスだけど、市街地から少し離れているのでトゥクトゥクをチャーターして行ってもらうのが一番確実だよ。
緑に隠された巨大な貯水槽
次に巨大なコンクリートの貯水槽について見ていこう。
これもクメールルージュ時代に建設されたのだそう。
周りは木々が生い茂っていて周りも丘のようになっていたから、中々見つけにくい。もしかしたらこれも政権のときは秘密にされていたものなのかもしれないね。

貯水槽の中。もちろん今は使われていない。
貯水槽の中は空洞になっていて、上の穴から雨水を溜められるような構造になっていた。
声や足音はすごく反響して聞こえるよ。
貯水槽の中には、写真にあるように何かを祀ったような跡もあったんだ。
もしかしたら、今でもポルポトを信仰している人によるものなのかもしれない。
ほとんどのカンボジア人はポルポトは悪だったと言っているけれど、一部の人にはまだ英雄なのかな。それは多分、憎きベトナム人を追い出し金持ちを処刑したという意味において。
ディープなコンポンチュナンに行けるツアーも
ディープなコンポンチュナンを見学し、感じることのできるツアーも行われているよ!
詳しくはぼくのTwitter(@TEx6527)か実施しているYouArt AcademyのTwitter(@youart_academy)のDMに連絡してみてね。
※参考サイト
Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia
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