
この間、シェムリアップに行った!楽しかった!
アンコールワット以外の歴史も知りたくなった。

今回は、世界史の教科書ではカットされているクメール王朝滅亡からの歴史を「シェムリアップ」という町を通して見てみることにするよ。
栄光のクメール王朝の後にやってきたのは、「暗黒時代」だった。
アンコール朝の栄光から滅亡まで
12世紀はアンコール朝(クメール王朝)の最盛期だったんだ。
アンコール遺跡群の大部分が造られたのはこの時代。
スールヤヴァルマン二世やジャヤヴァルマン七世といった有名な歴史上の人物が生まれたのもこの時代だよ。
でも、栄光は長く続かなかった。
13世紀のはじめにジャヤヴァルマン七世が亡くなると情勢が傾きはじめた。
生前、ジャヤヴァルマン七世は国力を高めるために積極的に対外遠征を進めたり、大規模な寺院を建設したりしてたから財政が不安定になったんだよ。
あと、世界史やってた人は13世紀って聞いたらピンとくるかもしれないね。
そう、モンゴルが大帝国を築いた時代だ。
カンボジアも元王朝(モンゴル帝国)の侵攻にあった。
隣のベトナム(陳朝)ももちろん元に侵攻されていたんだけど、なんと陳朝は当時最強だったモンゴル帝国を撃退してしまった!(その後すぐにフビライ・ハンは亡くなりモンゴル帝国の力は急速に衰えていった。)
そして勢いに乗った陳朝は、当時力を失っていたクメール王国に触手を伸ばそうとしたんだ。
時は14世紀になっていた。ベトナムのカンボジア侵攻に待ったをかけたのがタイのアユタヤ朝だった。
自分たちも肥沃なカンボジアの土地を欲しかったからだ。
そこで、アユタヤ朝は我先にとアンコール(当時の首都、現在のシェムリアップ)に侵攻をはじめ、15世紀前半、1431年にクメール王国はアユタヤ朝によって滅ぼされてしまった。
記録がほとんどない「暗黒時代」
そこからの15-16世紀は、重要な史料である石板もほとんど残っておらず記録がほとんどない。
だから、この時代のことを「暗黒時代」と呼ぶんだ。
もちろん、当時のクメール人が何もしなかったわけではないんだ。
当時のタイの記録が豊富に残っている『ポンサーワダーン(王国年代記)』によると、このとき何度も遷都(都を変えて)してあがいていたみたい。
今までカンボジアは農業立国だったんだけど、トンレサップ流域に遷都することで海運国になろうとしてたんだ。
そうこうしている間にもアユタヤ朝からの侵攻は止まらない。
カンボジアがついに反撃に出たのは17世紀に入ってからだった。
シェムリアップの語源とカンボジアのその後
反撃に出たカンボジア
17世紀になっても、カンボジアはタイの侵攻にさらされた。
当時カンボジアは「スレイ・サントー」という都市国家だったんだけど、このときついにアユタヤ朝を追い返すことに成功したんだ。
この遠征軍を派遣したのはチューン・プレイ王で、彼の配下にはマレー人の軍隊と大砲、象部隊、大砲を装備したクメール人の海軍まで存在しており、スレイ・サントーの軍はスペイン・ポルトガルと協力してラーンサーン王国(現在のラオス)に保護されていたロンヴェーク王の王子をスレイ・サントーの王位に就けました。
参照:歴ログ―世界史専門ブログ
これを見るとわかるように、相当な準備をかけて臨んだんだ。
そして実は、この追い返した場所こそが「シェムリアップ」だった。
シェムリアップとは「タイ人を〇〇」という意味だった。
シェムリアップをクメール文字で書くと សៀមរាប となるんだけど、前半のសៀម「シェム」は「シャム」のことなんだ。シャム猫の「シャム」だね。
シャムは言い換えると「タイ」とか「タイ人」のこと。
そして後半のរាប「リアップ」は、「整える」っていう意味で「平らにする」というニュアンスも含まれているんだって。
直訳すれば「タイ人を平らにした場所」になるね。
どういうことかというと、タイ兵士たちが皆殺されて平らにになったということ。
だから意訳すると「タイ人を追い返した場所」ということになる。
その後もカンボジアの苦難は続いた
一回は追い返せたけど、タイからの侵攻はやまなかったんだ。
むしろ、疲弊したところをベトナムに突かれたりもした。
実は、今のベトナムの「ホーチミンシティ」あたりは元々カンボジア領だったけど、このときに奪われてしまった。
その後も、両国の侵攻にされされて気づいたら19世紀。
新兵器を持つフランスに侵攻され、フランスの植民地になった。