【カンボジアの観光地】トゥールスレンでは何が起こっていたのか

歴史

トゥールスレンって今では観光地になっているけど、昔そこで何があったの?

ポル・ポト派が支配していた時代、トゥールスレンは「強制収容所」だったんだ。今回は、トゥールスレンで起こっていたことを探ってみるよ。

トゥールスレン行く前にぜひ見てみてね。

 

トゥールスレン―「S21」と呼ばれていた秘密の収容所

「トゥールスレン」とはのちに地名からつけられた名前で、クメールルージュ(ポル・ポト派)が支配していたころは「S21」と暗号で呼ばれていたんだ。

なんで名前をつけていなかったと言うと、トゥールスレンで行われていたこと、もっと言えばトゥールスレンそのものを秘密にしたかったからなんだ。

 

今回は当時のトゥールスレンの姿を追っていくことにするよ。

 

『我々は、パイナップルの目を持っている』

クメールルージュは当時「オンカー(クメール語で「組織」という意味)」と呼ばれ恐れられていた。

 

人々は物を満足に食べることも許されなかった。

当時を生き抜いた人に話を聞いてみると、「クイティウをおなかいっぱい食べたい…。」と漏らしただけでその人は収容所送りにされてしまったそう。

 

オンカーは何かを欲望することを決して許さなかった。

欲望を口にしたらその時点で収容所に送られて処刑されてしまう。

オンカーがいないところで愚痴を言うこともできなかった。

なぜかというと、オンカーは積極的に「密告」をすすめたからなんだ。

気を抜こうものなら、誰かがオンカーに「密告」する。

そして、一人、また一人と収容所に送りこまれていったんだ。

 

その当時、オンカーはこう言って民衆を支配していた。

『我々は、パイナップル目を持っている。』

「パイナップルの目」とは、「パイナップルのへこみの部分のように四方八方を見渡せる」という意味だよ。

 

収容された人は必ず処刑

文字が読めた人は「政治犯」とみなされ、ありとあらゆるカンボジア国内の収容所でももっとも過酷な「S21=トゥールスレン」に送り込まれた。

トゥールスレンは当時「生きては出られない収容所」と呼ばれていた。

実際、収容されていた20000人中生きて出られた人はたった8人しかいなかった。

 

なぜかと言うと、トゥールスレンに運び込まれた人々のほとんどは「クメールルージュに敵対する者(多くはでっち上げだけど)」と見なされていて、より多くの敵対者をあぶり出すために徹底的に拷問された。

その拷問はあまりに残酷で、絶対に秘密にしなければならなかった。

拷問を秘密にするには、トゥールスレンの存在そのものを秘密にしなきゃいけない。

トゥールスレンの存在そのものを秘密にするためには、ここに来てしまった者に口をつぐんでもらうしかない。

口をつぐんでもらうためには処刑するしかない。

 

そのため、ほとんどの人はここから生きて出ることはできなかった。

 

S21最高責任者ドッチ

ドッチ(本名カン・ケク・イウ)はトゥールスレン収容所の最高責任者だった中華系カンボジア人だったんだ。

ドッチは非常に優秀で、フランス統治下だったカンボジアの中で特にレベルが高かった学校を卒業した。

 

その後、教育研究所で共産主義を知り次第にその活動にのめり込んでいった。

クメールルージュが地下活動をしている段階からその活動の中にいた。

その後、クメールルージュが政権を取り、ドッチは党幹部からトゥールスレンの指揮を任されたんだ。

 

ドッチは自分自身が中華系だったので自分も処刑されないかびくびくしながら過ごしていた。

だけど、処刑されることはなくクメールルージュのゲリラ活動を1990年ごろまで続けた。

その後クメールルージュから逃げ出し、教師として暮らしていたが発見されて逮捕された。

 

終わりに

 

トゥールスレンはカンボジアの悲しみの場所。

どれだけカンボジアが内戦で壊されてしまったか。

それを知るためにも、ぜひ一回行ってみてね。